龍野古城(前期龍野城)は、標高211メートルの鶏籠山(けいろうざん)の山頂に15世紀に赤松村秀によって築城されたのが始まりとされています。
天正5年(1577年)に羽柴秀吉の播磨侵攻によって開城となり、以降秀吉の家臣が城主を歴任することとなります。その間に城は改修され、現在見られる城の構造や石垣などが作り替えられたと考えられています。
城跡全体を見ると横堀や土塁、竪堀(たてぼり)などの山城遺構が残り、山城の雰囲気を今もなお色濃く感じ取ることができます。
見どころ ポイント (山城ピクトグラム) |
|
---|---|
コース タイム |
|
標高 | 211m |
体力度 | ★★☆☆☆ |
技術度 | ★★★☆☆ |
対象 | 初・中級者 |
駐車場 | 龍野公園駐車場 |
トイレ | 龍野公園内のトイレ |
備考 | 一部急なところがございます。 |
西播八郡の守護代を務めた龍野赤松氏の拠点として、村秀により築城されて以降、政秀、広貞、広英と4代続きましたが、秀吉の播磨侵攻の際に開城します。その後は、蜂須賀正勝、福島正則ら、秀吉一門の武将が城主となります。
江戸時代になり、寛文12年(1672年)に脇坂安政が信州飯田から龍野に入部します。その際には山頂から山麓に機能が移っており、現在の位置に龍野城が整備され、明治まで使用されました。
現在の龍野城は、昭和54年に本丸御殿などが復元され、内部を見学することができます。
実際に山城に登っている様子を動画でご覧いただけます。
「中世播磨250の山城」(中世城郭研究家 木内内則)
「中世播磨250の山城」(中世城郭研究家 木内内則)
段々畑のように積まれた石垣は侍屋敷跡といわれ、
太平洋戦争時は畑として利用されました。
かつての侍屋敷の庭にあったと思われる「蹲い」が
残っており、今も渓水が引かれ手洗いなどに
利用されています。
※「蹲い」とは、手を洗ったり口をすすいで清める手水をためておく鉢の事。
多くは石造りで、自然石をそのまま用いたものもあります。
龍野藩主脇坂氏の上屋敷「聚遠亭」が坂下に
あった為、鳥ケ橈(地名)は重要な見張りの要所でした。
現在も泉水跡と井戸が残っています。
以前は左右に二つあったとされる石灯籠。
この峠を境に的場山方面、北龍野方面、
山頂の本丸方面の三方向に分かれます。
山城には敵の攻撃に備え要所には堀切や空堀があり、
龍野古城では敵が横移動しにくい「竪堀跡」が
今も残っています。
八幡宮本体は今は「城山八幡宮」として麓の
龍野神社の境内に遷されています。
野面石(自然のままに近い石)を積み上げた
石垣が一部残っており、中世山城の趣を
楽しめるポイントです。
龍野城の裏手からは大手道と伝えられています。