篠ノ丸城は、宍粟市山崎町の最上山(さいじょうさん)北の通称「一本松」山頂に築かれた山城です。登山道も整備され、比較的山頂まで登りやすい山城で、山頂からは、山崎の町並みや揖保川を望むことができます。
主郭(しゅかく)南側の虎口(こぐち)脇には、城跡を示す石碑が建てられています。この山城の最大の見どころである、北側斜面を覆う大規模な畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)をはじめ、堀切、土塁、横堀などの遺構が残っており、山城初心者におすすめしたい山城の一つです。
最上山は、紅葉が兵庫県で最も美しいといわれており、秋には紅葉狩りを楽しむ人々でにぎわいます。
見どころ ポイント (山城ピクトグラム) |
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コース タイム |
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標高 | 324m |
体力度 | ★★☆☆☆ |
技術度 | ★★☆☆☆ |
対象 | 初・中級者 |
駐車場 | あり バス(中型は防災センター駐車場を利用) |
トイレ | 中腹に、市の管理するトイレがある。 |
備考 | 山頂には多言語に対応した大きな看板があります。 |
江戸時代に編纂された『赤松家播備作城記(あかまつけばんびさくじょうき)』によれば、南北朝期に赤松貞範(さだのり)の長男顕則(あきのり)が築いたとされています。
応仁の乱以降は、赤松氏の守護代である宇野氏が本拠とする長水城(標高584メートル)の支城となっていました。
戦国期、天正6年(1578)頃より織田信長による播磨侵攻が本格化すると、宇野政頼・祐清(すけきよ)父子は、当初は織田方についたとみられるものの、第二次上月(こうづき)合戦の際に毛利方に寝返りました。その後、三木城・英賀城を攻略した秀吉の軍勢によって天正8年(1580年)に長水城とともに落城しました。
宇野氏滅亡後、宍粟の地は神子田正治、次いで黒田官兵衛に与えられますが、黒田家の正史「黒田家譜」には、宇野氏滅亡後に官兵衛が山崎の城に居城したとの記述があり、この山崎の城が篠ノ丸城ではないかという説もあります。
実際に山城に登っている様子を動画でご覧いただけます。
「中世播磨250の山城」(中世城郭研究家 木内内則)
「中世播磨250の山城」(中世城郭研究家 木内内則)
虎口を過ぎた本丸広場に巨大な案内看板が
あります。多言語リード対応の二次元バーコードが
設置されています。
本丸の周囲には土塁が取り巻いており、内側には城主の
居館や蔵などが建ち並んでいたと考えられる。
二の丸の跡地にある東屋は、登山者の憩いの場と
なっており、長水山の頂を眺めることができます。
二の丸を過ぎ戸倉山へと続く尾根沿いを約5分。
「堀切」をやり過ごし縦走すると現れる眺望デッキです。
国内外のモミジが約3,000本植栽されており、
紅葉シーズンには山全体が燃えるような深紅に染まります。
展望スポットからは山崎の街並と共に、
秀吉が陣を張った聖山城が臨めます。
「篠ノ丸城」と「長水城」を同時に見張れる絶好の地でした。