上月城は、佐用町に存在する山城で、織田・毛利の前哨戦となった上月合戦の主戦場となった山城です。標高190メートルの山頂に自然地形を生かした曲輪、堀切などがあり、主郭に赤松氏、麓に尼子氏の供養塔が残されています。
見どころ ポイント (山城ピクトグラム) |
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コース タイム |
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標高 | 約190m |
体力度 | ★☆☆☆☆ |
技術度 | ★☆☆☆☆ |
対象 | 初級者 |
駐車場 | 有(上月歴史資料館) バスの駐車可(中型可) |
トイレ | 山麓の「上月歴史資料館」を利用(要相談) 開館日:土・日・祝 10:00〜16:00 |
備考 | 山頂からさらに先に進むと上月の町を見渡せるビュースポットがあります。 |
大正15年に編纂された「佐用郡誌」によると、鎌倉末期に赤松氏の一族、上月景盛(かげもり)が築城。1441年(嘉吉(かきつ)元年)4代景家の時、嘉吉の乱が発生し、上月氏の嫡流は滅びました。上月城は、播磨・備前・美作三国の境界に位置する地理的要素から攻防の的となりました。
天文7年(1538年)に尼子氏に攻略され落城した後、弘治3年(1557年)に赤松一門で「西播磨殿」と呼ばれたと伝わる政元が置塩城から入城。大内氏らとの激しい攻防戦の末、宇喜多直家によって攻め落とされます。
その後、信長方の秀吉軍によって落城し、尼子勝久が入城しましたが、天正6年(1578年)、6万余りの毛利軍に攻められ、三木城攻めに手を焼いた秀吉軍に見放されてあえなく上月城は落城、尼子氏は滅亡しました。勝久の家臣、山中幸盛(鹿介)の忠義は有名です。
実際に山城に登っている様子を動画でご覧いただけます。
「中世播磨250の山城」(中世城郭研究家 木内内則)
登山道脇には尼子勝久や山中鹿之助などの
追悼碑が建てられています。
江戸時代に描かれた古絵図には
「休郭」と記されています。
利神城跡と上月の町を見渡せるポイントです。
尾根伝いに攻めてくる敵の進入を
防ぐために作られた施設です。
山頂には赤松政範を弔う
供養碑が残されています。