西播磨の山城

西播磨の山城

長水城

概要

主な城主:広瀬師頼、宇野政頼
標高:584m
形態:連郭式山城(中世)

 宍粟市山崎町の市街地から北西約5キロ、標高584メートルの長水山の山頂に築かれた城で、西播磨の山城の中でも規模が大きく、五十波(いかば)・宇野地区などにまたがり、山頂の周囲には、険しい斜面が取り巻く堅固な構造となっています。
信徳寺本堂が建つ山頂部に主郭を置き、東西約200メートル、南北約500メートルの尾根沿いに複数の郭(くるわ)を配置。西麓の蔦沢小学校(旧伊水小学校)付近は大手口の居館(きょかん)跡で、周辺に残る殿町、町屋敷などの地名から、初期的な城下町があったと推測されています。
 山頂からは、山崎町の町並みや、秀吉勢の本陣が置かれたとされる聖山城(ひじりやまじょう)跡、篠ノ丸城跡、揖保川などが一望できます。

山城ピクトグラムについて

見どころ
ポイント
(山城ピクトグラム)
コース
タイム
標高 584m
体力度 ★★★★☆
技術度 ★★★★☆
対象 中・上級者
駐車場 五十波側は林道終点に普通車数台の駐車スペースあり
トイレ 伊沢の里ふるさと広場内
備考 コースMAPのP1駐車場まで車で行けます。

【歴史】

 南北朝期に赤松円心(則村)の三男則祐によって築かれ、その後、則祐の四男・広瀬師頼(広瀬氏の祖)が城を受けついだとされています。
 嘉吉(かきつ)元年(1441年)の嘉吉の乱でいったん落城した後、赤松氏の守護代である宇野氏が防備に優れたこの城を本拠にしたと考えられています。
 戦国期、織田方の播磨侵攻の際、宇野政頼・祐清(すけきよ)父子は、当初は織田方についたとみられるものの、第二次上月(こうづき)合戦の際に毛利方に寝返りました。その後、三木城・英賀城を攻略した秀吉の軍勢によって天正8年(1580年)に篠ノ丸城とともに落城しました。 
 その後、宍粟の地は神子田正治、次いで黒田官兵衛らの領地となり、長水城はその役割を終えました。
 現在は、主郭跡に宇野氏の菩提を弔う信徳寺があります。

動画

実際に山城に登っている様子を動画でご覧いただけます。

縄張り図(参考図)

「中世播磨250の山城」(中世城郭研究家 木内内則)
(  )は西播磨ツーリズム振興協議会で補足しました。

コースMAP

伊沢の里からP1まで車で行くこともできます。※林道なのでお気をつけください。
※P3へは蔦沢小学校(旧伊水小学校)の校門のすぐ北から進入できます。

MAPのダウンロードはこちらから(PDF)

山城ガイドのご案内

山城ガイドをご希望の方はこちら

https://hcs.or.jp/yamajirogaidoichiran/

見どころポイント

  • 長水城跡

    山頂には、約24m×約16mの本丸跡があり、東・南・
    北側には石垣が築かれ、長水城の特徴となっています。

  • 本丸石垣

    本丸跡を取り囲む石垣は、高さ約5mを測り、
    宇野氏の勢力を物語る勇壮な姿を見せています。

  • 水場

    五十波方面からの登山道を信徳寺の直下まで
    たどり着くと水場があり、現在も水を湛えています。

  • 二ノ郭からの眺望

    長水城主郭南側の「二の郭」からの素晴らしい眺望。
    遠く瀬戸内海まで見渡せます。

  • 城主 宇野氏の追悼碑

    落城した長水城主、宇野氏の追悼碑が
    主郭跡にひっそりと佇んでいます。

  • 堀切

    山頂部の郭群を区画する堀切で、
    岩盤をくり抜いて掘削しています。

登山口までのアクセス

※Google マップでは伊沢の里駐車場を表記しています。

TOPへ

西播磨山城ファンクラブ募集中

西播磨山城商品一覧

西播磨の山城イメージキャラクター紹介