たつの市新宮町にある亀山(きのやま)の山上に位置し、奈良時代の古代山城(こだいさんじょう)と室町時代の中世山城(ちゅうせいやまじろ)が一つの山に存在する非常に珍しい事例です。
県内唯一の古代山城で、石塁や「門の築石(つきいし)」と呼ばれる門礎などの遺構を見ることができます。山頂から少し下った場所には、堀切や郭(くるわ)など嘉吉(かきつ)の乱にゆかりのある中世山城の遺構を見ることができます。
見どころ ポイント (山城ピクトグラム) |
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コース タイム |
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標高 | 458m |
体力度 | ★★★★★ |
技術度 | ★★★★★ |
対象 | 上級者 |
駐車場 | 越部西公園駐車場を利用 駐車場は広いが、アクセス道が道幅がないため、中型バスまで。 |
トイレ | 越部西公園駐車場内のトイレ |
備考 | ルートが何本もあり、下調べをしてから登ることをオススメします。 |
天智2年(663年)に白村江(はくすきのえ)の戦いで大和朝廷・百済連合軍が唐・新羅連合軍に破れた後、大陸からの侵攻に備えて西日本各地に築城した山城で、古代山城と呼ばれています。古代山城として築城された後は、山岳寺院や中世山城として利用されました。
14世紀に成立した「峰相記」には、天徳年中(957~961年)に盗賊が城山城に城を構えて略奪をおこなったため、これを討伐したとの記録が残っています。
中世の城山城は、赤松円心の三男則祐が正平7・観応3年(1352年)ごろから20年以上かけて整備したことが「東寺百合文書」などで確認できます。
則祐の孫満祐まで赤松氏の支配下となっていましたが、嘉吉元(1441)年の嘉吉の乱で幕府軍に攻められ、満祐は一族69人とともに自害し、落城します。
その後100年近く荒廃していましたが、天文7年(1538年)に山陰の戦国大名、尼子晴久が播磨へ侵攻する際に2年間本拠地としました。
尼子勢が天文9年(1540年)に播磨から撤退した後は、使われずに廃城となりました。
実際に山城に登っている様子を動画でご覧いただけます。
「中世播磨250の山城」(中世城郭研究家 木内内則)
※山城中での現在地の確認はARアプリ「西播磨の山城へGO」をご利用ください。
古墳時代後期の円墳(径約18m・高さ約6m)で
横穴式石室は穹窿式と呼ばれるドーム型状です。
城山城の北尾根上にのこる石碑で、
南無阿弥陀仏の文字がかろうじて認められます。
推定では室町時代以降のものと思われます。
山頂にある巨石で、頭を東方に向けた
蛙に見えることからこの名が付いたとされています。
山頂にある巨石で頭を東方に向けた
亀に見えることからこの名が付いています。
付近からは弥生土器も出土しており、弥生時代には
高地性集落が存在した可能性があります。
城山城には大きな堀切が北、西、南側にあり、
西側に残る堀切は城内最大のものです。
古代山城の門の礎石。3つの巨石からなり、東西には凹型の石、中央には扉が閉じ合わさる石があります。
当初の位置からはずり落ちて下方で見つけられます。
主郭の北西には、今も湧水を続ける井戸があり、
その周囲を石材で囲んでいます。
井戸から南東に広がる削平地が、
城山城主郭跡とされています。
中央に板碑、右に不動明王、
左側に五輪塔残欠を配しています。
嘉吉の乱で亡くなった兵士や自刃した武将のお墓とされています。
5間×7間の総柱建物跡の礎石。
ここに本堂があったものと考えられています。