十四世紀、鎌倉時代から室町時代に前後する南北朝時代から戦国時代にかけ、険しい山野を巧みに使い造られた城の一種。
当時築城された数は全国で三万とも四万とも伝えられています。
水をたたえた堀に立派な天守閣を誇る「姫路城」や「大阪城」のように「権力を誇示する近世城郭」とは異なり、戦う目的で建造された軍事施設としての「山城」には、乱世に生きた武将たちの生き様が今も感じられます。
慶長二十年(1615年)、江戸幕府が「一国一城令」を大名達に命じたことで、その多くが廃城を迎えることになりましたが、石垣などの基本的な構造は残され、500年以上の時を経て一部風化しているものもありますが、中世山城の趣を伝えてくれています。
一見するだけでは、単なる雑木林や森林にしか映らない山道も、「少しの歴史とお城の知識」を身につけるだけで、当時の武将の知恵や戦場の有り様がリアルに垣間見え、「歴史の追体験」を楽しめます。
赤松氏が新田軍勢を50余日に渡り足留めしたことで
足利尊氏により感状(感謝状)を与えられた城。
赤松村秀が築いた連郭式山城(中世)。秀吉の播磨進攻には
開城降伏し「戦う」ことより「支配拠点」を選んだ城。
赤松則祐が上郡の「白旗城」に代わる居城として築いた。古代山城と
連郭式山城(中世)いずれの遺構が同時に見られる珍しい城跡。
嘉吉の乱以降に山名氏が赤松氏残党の反逆に備えた城。
天然の要害にして毛利軍が攻めあぐねた名城。
一人の老婆によって奇しくも落城した城。
西国街道を東西に望む赤穂市最大の山城。
黒田官兵衛の居城である「山崎の城」と推定される。
長水城と共に落城。
秀吉の播磨進攻に最後まで抵抗するも落城。
播磨の戦国時代の終焉につながった城。
足利将軍の暗殺後に幕府方討伐軍に敗れた「嘉吉の乱」と秀吉の
播磨進攻によって二度落城した城。
6万の新田軍勢を2千の兵で足止めした
「落ちない城」として名高い城。
備前、美作へと至る交通の要衝に築かれた山城。
秀吉の播磨進攻の際、城内の者を全て殺害されるという悲惨な
戦いは名高く、播磨、備前、美作三国の境目攻防に翻弄された城。
南北朝時代、「白旗城」の北の守り。
織田方の尼子軍に攻められ落城。「雲突城」の異名を持つ。