天平宝字8年(764年)、突如として攻め込んできた新羅の軍船に驚いた朝廷は、鉄の的をも射通すという藤原貞国に「的(いくわ)」の姓を与え、征討大将軍に任じ新羅の大軍を討伐させました。貞国は折柄の大風に乗じて出陣し、敵将の首を取りました。貞国はこの偉功により播磨西五郡を賜り、的姓を名乗って太田郷楯鼓原に住所を構え長くこの地に栄えたといわれています。後に貞国は黒岡明神として崇め祀られました。
また、黒岡神社には菅原道真も祀られています。道真が筑紫に向かう途中、広畑の高浜へ滞留、当社へ参詣したゆかりによるものです。
黒岡神社古墳
黒岡神社境内にある古墳時代後期の代表的な古墳。径約15mの円墳で、墳丘・石室ともに保存状態は良好です。右片袖横穴式石室内に石棺が残されているのも貴重です。